火曜日, 2月 28, 2012

エルピーダの会社更生法適用申請に寄せて

エルピーダができた頃の状況で覚えているのは、台湾・韓国勢に追い上げられて、当時の日本のDRAM制作会社は既に瀕死の状態にあったはずだった。それまで産業の米とまで言われて、DRAMにこだわっていた行政やマスコミは大騒ぎをし、日本の持つ高度な技術を結集すれば生き残れるはずだと、発足当初から悲壮な決意で関係者はエルピーダを立ち上げたはずだ。しかし、このときに既に判断を誤っていたのだ。アメリカではとうにDRAMをあきらめて、より高度な回路設計を必要とする半導体の開発・制作に猛然と進んでいた。そういった事から言えば、今までエルピーダが持ちこたえてきた事の方が奇跡に近いのだ。日本は明らかに進むべき方向を間違えた。ちょうどこれは、後におこる日米摩擦のときに、文部省が既にTRONを採用しかかっていたのを、NECなどの横やりでマイクロソフトを選ぶようになったのと似ている。基本的な流れを見誤っていたのだ。まだある。ネットワーク時代に備えて、どの規格を採用するか問題になっていたときに、日本はヨーロッパ基準に固執し続けた。その結果、UNIXを大学で教えるようになったのは、インターネットが普及し始めてからだ。未だに、霞ヶ関のネットセキュリティーの脆弱さは目を覆うばかりだと聞いている。
参考:http://xwin2.typepad.jp/xwin2weblog/2012/02/jdramoutes.html

日曜日, 2月 26, 2012

父母との別れ

一昨年に母を亡くし、去年父を亡くした。母が自力で動くのが困難になってきた頃、近くの施設で介護の手続きの仕方を教わり、区役所などの行き来が続いた。ケアマネージャーさんに計画を作ってもらい、ヘルパーさんたちと打ち合わせをし、風呂場の改造、手摺の取り付け、ベッドの借り入れなどが一気に整った。母はおしまいの頃、歯が1本になってしまったので、歯医者さんに出張してもらって入れ歯を治している途中で最後を迎えた。父が仕舞いまで面倒を見ていた。一人になった父は私が手を出すのを最後まで拒否した。とはいっても、朝、父の家にいくと大抵、畳の上で仰向けになり私を呼んでいた。一人でトイレに行くつもりが、紙おむつを取って投げ出すものだから、布団や畳やらが汚れていたのだった。
二人とも最後を迎えるときに、私の顔を見つめたのだった。声は出ないが目で物を言っていたのだろう。その後、息苦しそうな動作とともに心肺停止状態に向かうのだった。母のときは救急車がすぐきてくれたが既に遅かった。病院に運ばれたので、事故扱いになってしまった。葬儀や遺品整理を終えて、家の後始末に取りかかり、やっと一息ついたという感じだ。今までは夢中で動いていたのが、今では精神的な疲れがどっと押し寄せてきたという感じだ。家の始末のつくのに、もう少しかかるから、それが終わったら、ゆっくりさせてもらおう。

SHISHAMOとジャズのリズム

SHISHAMOの武道館でのライブを記録した,ブルーレイディスクを聞いている。SHISHAMOの曲の詞はメロディーに乗せるのがジャズのリズムになっている気がしてしょうがない。そう,これらの詞はジャズのインプロビゼーションそのものだ。