月曜日, 1月 21, 2008

文明社会の斜陽

東京新聞、高村薫氏のコラムから、
『私たちの不安は大きく、深い。失われた十年と呼ばれた時代にはまだ、いずれ再びという漠とした希望もあったが、いまもそう思っている人はよほどの資産家か、よほどの楽天家である。』
『三十年も前から何となくまずいと誰もが感じ、改革の必要を唱えながら、今日なおも根本的な構造は変わっていないことも知っている。』
『外需頼みの経済が加速して内需は落ち込み、異様なゼロ金利政策のおかげで円の流出は止まらず、国内の株式市場は年々縮小して、私たちはみるみるうちに貧乏になった。気がつけば、国民一人当たりのGDP (国内総生産)は、いまや世界で十八位である。』
『たとえば穏やかな生活の安定と、日本に暮らすことの控えめな自信と誇りを望むとしよう。その誇りのなかには、言うまでもなく平和も含まれる。高い技術と文化、芸術も含まれる。』
『まずは、千五百兆円もある国民の金融資産が、国内で回るような方策をつくること。企業と市場が、透明性だけでなく、適切な再分配という社会性と公共性をもつこと。戦略的には、いち早く低炭素社会をつくり上げること。技術と頭脳を流出させないこと。装置産業中心の産業構造を、先端技術中心に変えてゆくこと。そのために、大量消費に慣れた私たち自身の生活スタイルを、大きく変えること。また何より、これまでより少し生活のサイズを小さくすること。食料自給率と自然エネルギーの利用率を高めること。そのためのコストを、私たちが負担すること。』
『技術と資金とインフラがこの国にまだあるうちに、こうした大きな軌道修正への意思と知恵をもつ政治家を、私たちは何よりまず、持たなければならないと思う。』
『賃金低下のなかの税制の不均衡や、社会保障の制度的不備は、もう個別のつぎはぎではどうにもならないところに来ており、だからこその混迷と沈滞である。』

誰もが同じことを考えていることだろう。誰もが知っていてだれもが実行しないことだらけなのだ。大同小異のことを別の見方で先日の紙面にも見ることができた。
ロナルド・ドーア氏のコラムから、
『論法は大体こうである。現在日本の上場企業の株の約三割を外資系機関投資家が持っていて、株の売買(いわゆる「出来高」)の約六割が外資機関投資家の株売買による。日経平均下落は、外国の投資家が日本に、そっぽを向いているからである。そっぽを向くのは当然で、日本が悪いとする。』
『むしろ、日本の株式市場がアメリカ投資家に支配される度合いが少しでも減ったと喜び、従業員など、株主以外のステークホルダーを大事にして、短期の利益より、企業の長期的成長を図ろうとする良心的経営者が、株主の利益だけを考える敵対的買収者に乗っとられる可能性が少しでも減った―と安心感を覚える日本人はもういないだろうか。』
『財界の「仰米主義」は霞が関にも見られる。自国の国債をほとんど自国民が持っているという状態は普通の国なら、国の強みとして誇らしい。ところが、三年前から、日本の財務省の役人がロンドンやニューヨークヘ、日本の国債を積極的に売り込もうとしている。』
『それより、財務省が持っている、百兆円にも上る外貨準備の一部を使って、外国人が持っている四十兆円足らずの日本国債を買い上げておいて、国民の債務を減らしたほうがずっと合理的なのに。外貨準備金を、日に日に価値を失うアメリカの国債に投資する代わりに。』

要するに、霞が関、日銀、政治家たちは社会の現実が見えていないのだ。考え方が逆立ちしているのだ。こうした認識錯誤はどこからきているのだろうか。私腹を肥やす、あるいは地域エゴだけのために奔走する。立派な政治家を見つけるのは今の状況では悲観的に過ぎる。学者さんたちよ、いいアドバイスを政治家や霞が関に与えてやってほしい。・・・そうした実力者もいないか?

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SHISHAMOとジャズのリズム

SHISHAMOの武道館でのライブを記録した,ブルーレイディスクを聞いている。SHISHAMOの曲の詞はメロディーに乗せるのがジャズのリズムになっている気がしてしょうがない。そう,これらの詞はジャズのインプロビゼーションそのものだ。