東京新聞から・・・、
『古く我が国の文化事業は寺社の造営に限らず、和歌の撰集なども含め、その大半が魂鎮めをひそかなモチーフにしていたと言われます。クリスマスのような生誕祭より、日本では宗教的偉人への感謝の気持ちを表すにしても七百五十回大遠忌のように、むしろ亡くなった忌日(命日)を目当てにして営まれることが多いのですが、このあたりにも同じ文化的基調(通奏低音)が流れていると言っていいでしょう。恩に報いる感謝(おかげさま)の気持ちと、魂鎮めの供養の心とが渾然一体になっている。皆さんがなさっている”ご先祖供養”も含めて、そこに我が「民俗のこころ」が、よく表れているわけです。』
『第一線を引くというのは、幸いにも世の「煽る文化」から解放されることを意味します。代わって、我が「民俗のこころ」ともなった「鎮めの文化」を、子や孫の世代にも伝えられる余裕ある「心の時節」です。おたがい着地点(死)に向け、エンジン・ブレーキをかけた感じでゆっくり降ってまいりましょう。』
(コラム・生きる、筆者:大村英昭)
そうは言っても、現実は厳しくなかなかそうも行かないんだなぁ~、これが・・・。社会の変化はめまぐるしく、年金生活もままならず、いつも生活に追っかけられている感じからは逃れられない。自分の葬式の心配やら墓の心配やら、そこまで行き着くまでの蓄えやら、何事にもお金がついて回る。よしんば、ボヘミアンになったとしても、少年に焼き討ちをかけられたり、自治体に強制立ち退きを求められたりで、これもままならず。「わが民族のこころ」というのは、村社会の中でこそ成り立っていたのであって、金銭至上主義社会に成り下がった今の都市生活の中では、エンジン・ブレーキをかけると途端に生活苦に追っかけられそうだ。どうしたもんだか・・・。
かつて、ダライ・ラマがNHKテレビのインタビューで、本当の人間らしい生活を送れるのは、現代では小学校に上がるまでと定年後の人生だという意味のことを言っていた。だから、定年後にこそ人間らしい行いをしなさいということだった。これも僕のようなボンクラ人間にはとてもとても・・・。
アルビン・トフラーの言うところによると、生産消費者なる新たな富の生産者が勃興してきていて、経済社会の大変革が進行中だと言うことだが、その大変革の結果、世界はどうなるのか?資本主義は生き残れるのか?第2のグローバリズムの行く末は・・・?そもそも生産消費者なるものは、健康で活力があって、アイデアに富んでいなければならないのだし・・・。
3 件のコメント:
余り難しく考えることは無いと思います。とりあえず収入はわずかでも年金があり、家を所有してさえいれば、生活は出来るものです、世間体を考えると駄目ですね。
定年後は生き甲斐のため趣味を発展させたいですね、寂しいから疎外感があるからと無理に仲間を作る必要もないと思います、死ぬときは一人ですから。
気の合う人とだけつき合うこれに限りますね、おかげさまで血圧も下がりました。
同感です。
私も最近血圧が下がりました。
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